そっかー、遠藤ミチロウさんの訃報に驚いて居たんだけど、清志郎も10年前のゴールデンウィークに亡くなったんだったよね。
あの時は余りにも唐突で悲しくて、今回のミチロウさんの訃報を知ったのと同様にすごいショックだったよな。悲し過ぎて泣いて泣いて、何処にも出かける気にならなかったもんな。今年もそうだわ・・・(;_;)
清志郎=「RCサクセション」との出会いは初恋のあの娘が教えてくれた。
清志郎=RCサクセションを知ったのは中学二年生の頃。きっかけは、初恋のH子ちゃんが好きだ、ってのを小耳に挟んでからでした。
片思いの相手が好きなミュージシャンとか、めっちゃ気になるじゃないですか!好きな子の好みも知りたいし、同じ音楽を聞いて共感出来る部分を一つでも多く探したいもんだし(笑)
そんな「よこしまな気持ち」がきっかけで初めて買ったアルバムがこれでした。
価格:1,954円 |
名曲「スローバラード」や「僕の好きな先生」などが入ってます。
その後は一気にRCサクセションにハマりましたね。アルバムも小遣いをためては買い揃えていったものです。
高校時代の清志郎は内気な少年だった!?
今朝、Twitterでこんなツイートを見つけました。
(#天声人語)ぼくの好きな先生
— 朝日新聞東京編集局(コブク郎) (@asahi_tokyo) 2019年5月1日
『「十八になる私の子供は内向的でハキハキしません。ギターのプロになるのだと申します。どうしたらよいでしょう」。50年前、本紙の人生相談の欄に投稿が載った。相談者はのちにロックシンガーとなる高校生、#忌野清志郎 さんの母である』https://t.co/py0bcSrjGi
今から50年前に朝日新聞の「人生相談」の欄にこんな読者さんの投稿が寄せられたそうです。
「18になる私の子供は内向的でハキハキしません。ギターのプロになるのだと申します。どうしたらよいでしょう」
相談者は、後に偉大なるロックシンガーになる「忌野清志郎」のお母さんだったそうです。
お母さんは、当時の清志郎の担任であり清志郎が慕っていた都立日野高校の美術教師、小林 晴雄さんにも相談していた。当時の小林先生は「 何年か好きなことをやらせてみましょう。」とお母さんを説得されたんだとか。
「小林先生」は普段から偉ぶらず・叱らず・説教もせず、稀にボソッ、と生徒を褒める先生らしくない先生だったそうで、日頃から職員室を敬遠しては「美術準備室」で絵を書く事を好んだんだそうだ。
そう、清志郎のファンならピンと来るはず。名曲「僕の好きな先生」のモデルとなった先生なのだ。定年退職後は公民館などで絵を教えていたそうで、年に一回行われる同高のOB作品展には小林先生と清志郎も作品を出店しており、交流が続いたそうです。
清志郎は10年前に58歳の年で短い人生を閉じたが、清志郎の才能を信じて、最後まで見守り続けた小林先生も、昨年の春に86歳で人生を閉じたとのこと。今頃は天国の美術室で2人で色々と語っているのだろうか。
清志郎と言ったらタイマーズ!!
清志郎ってバラしちゃ駄目なんだっけか、「ZERRY」って言わないと駄目なんだっけ、「タイマーズ」は。(笑)
タイマーズと言ったら、数々の放送事故。(笑)今もYou Tubeに上げられては消されますが、消されてもまた誰かが貼る、の繰り返しエンドレス。(笑)
まずはNHKで大晦日に生放送でやった、「BAND STAND事件」。あわてたNHK側が最後、苦し紛れに島倉千代子のカレンダーに差し替える辺りが笑えます。
こちらは代表的な放送事故「FM東京事件」。←リンクを踏んで読んでみて下さい。これも未だに消されるが、消されると直ぐにまた誰かがあげますので、You Tubeでは「タイマーズ」で検索するといつでも見れます。(笑)
まだまだ好きな曲は数え切れないですね。「雨上がりの夜空に」は鉄板だし。
「トランジスタラジオ」も思い出が沢山詰まっているし。
「スローバラード」は今聞いてもホンっと名曲だと思います。
もし、今も清志郎が生きていてくれたとしたら、どんな歌を聞かせてくれた事でしょう。あれだけ反原発と政治腐敗を批判していた清志郎だったので、今の世の中を見過ごすような事は出来なかったでしょうね。
以上、長い記事になってしまいました。書いている内にあれもこれも思い出されてキリが無くなってしまいますね。昨日のミチロウさんの記事に引き続き、書いている内に泣いちゃうし。(笑)
清志郎やミチロウさんが音楽を通して伝えかった事、ちゃんと受け止めた人間として、頑張って後世まで伝えないといけませんね。
これからの若者と生まれてくる子供達の為に、本当に平和で生涯通して生きやすい国にして子や孫の世代に引き渡したいものです。
それじゃ!
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