未だふとした時に遠藤ミチロウさんの事を思い出す時がある。時々YouTubeを見てはミチロウさんと長岡市の「音楽食堂」で明け方まで飲み明かした夜の事が思い出される。と言っても、ミチロウさんは酒は飲めないんだが。
ミチロウさんがどんな人で、どんな偉大な人だったかはウィキペディアに説明して貰うとして、ここに書いて無いことを補足がてら、前回の続きも兼ねて書いてみようと思う。
ミチロウさんは酒が飲めないのでコーラを飲んでいたのに対して、僕は結構と酒が入って良い気分だったのだが、なるべく失礼の無いように振る舞ったつもりで居たが、なんせ全然気取りもなく優しい方で気を使わないで話せるように気配りのすごい人でした。
なので、随分と根掘り葉掘り色んな質問をしちゃったりしたけど、ミチロウさんは嫌な顔ひとつせず、優しい笑顔で色んな話を聞かせてくれました。
歴史や民俗学が好きで山形大学の人文学部に進学した事、その探究心から旅をする事が大好きで、ヒッチハイクで列島を縦断したことや、バックパッカーとして東南アジアを旅したこと。
一生の仕事として何をしようか、と考え始めた頃に「一生旅し続けられる仕事ってねぇかな。」って考えたら、「そうだ、ミュージシャンになったら日本中を興行で廻れるんじゃないか?」との思いでミュージシャンで食って行こうと思ったんだとか。
ミュージシャンは良いけど、ジャンルは何にしようか?と考えたんだが、当時は既に「吉田拓郎」の全盛期で、「フォークは絶対に勝ち目がない」と思ったそう。
そこで思いついたのが「パンク」。とにかく目立つためには人に嫌われそうな事や過激な事を進んでやってみたんだとか。バンド名も旧ソ連(現ロシア)の独裁者、ヨシフ・スターリンから取った事と、基本的にはブラックジョークが根底にあるとの事。
その後の伝説の数々は周知の通り。都内のライブハウスを全部締め出し食らったり興奮したファンがライブハウスに放火して燃やしてしまったり。「音楽で飯が食えるようになるまでは本当に苦労したよ。」と、その割には楽しそうに語っていたのが思い出されます。
晩年は日本中のライブハウスやカフェみたいなところまで、呼ばれると毎年来てくれていましたね。新潟県内でも長岡市の音楽食堂や、三条市のベロニカにも来てました。
ジャパニーズパンクスの金字塔と呼ばれ、今もリスペクトするバンドも数え切れないほどのビッグネーム(僕が大好きなブランキー・ジェット・シティのドラムの中村達也さんとも仲良し)なのに、本当に飾りっ気もなく偉ぶらず、とても優しくて素晴らしい人でした。ファンを大切にする、心底尊敬できる人でしたね。
故郷福島の事をずっと気に掛けておられて、まだまだ志半ばだったかと思われ残念で仕方がないのですが、今は只々心よりご冥福をお祈りしたいと思います。
ミチロウさん、V6の番組にも出てたんですねw
セブンのCMで関ジャニが歌うデイ・ドリーム・ビリーバーのロングバージョン公開中!
この曲は大本は「ザ・モンキーズ」の「デイ・ドリーム・ビリーバー」が原曲です。
ちなみに原曲の和訳はこちらで、ほのぼのとした幸福感溢れる感じの歌詞です。
そんでもって、こちらはお馴染み「タイマーズ」の「デイ・ドリーム・ビリーバー」。
清志郎は、産みの母親とは3歳の頃に死に別れているのですね。この「デイ・ドリーム・ビリーバー」を初めて聞いたばかりの頃は、「彼女か奥さんと死に別れた男性の心境を唄った悲しい詩」ってイメージだったんですが、実は清志郎が今は亡き母に贈る詩だったんだそうです。
清志郎が3歳の時に生みの親と死に別れた、って事実を知ったのは実は3歳の清志郎を育ててくれた継母が死んだ1986年。清志郎が35歳の時です。清志郎は自分の出生の秘密を知ってどんな気持ちだったのでしょうか。継母に対しての思いや産みの母への思いも交錯して、心が混乱したであろう事は用意に想像できます。
なんか凄く切なくなる話で、どんな想いで清志郎がこの詩を書いたかと思うと心がギュッとなるのですが、その気持をこれほどの名曲としてカバーした清志郎は、やはり本物のロックンローラーですね。
これは後世まで名曲として歌われ続けることでしょう。きっと2人の母に贈った清志郎の澄み切った詩が、無条件で今も愛されこれからも歌い続けられるのでしょうね。
ちなみに高畑充希さんも映画「ひるね姫」の主題歌として「デイ・ドリーム・ビリーバー」を歌っているんですね。
これはこれで凄く温かい感じがして良いですね。それにしてもこの子はXの「紅」といい、歌が上手いですねー!聞き惚れちゃいました。
もう日増しに暑くなって来て、そろそろ初夏の兆しですが。
毎年春が来る度に、ミチロウさんと清志郎という偉大なる本物のロッカーを思い出すんだろうな。なんか僕も色々と頑張らないと。
それじゃ!
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